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更新日:2022年6月10日
鹿児島県霧島市は、鹿児島県本土の中央部に位置し、北部は霧島連山を擁し、南部には国分平野が広がり、桜島を望む錦江湾に接しています。平成17年に国分市・溝辺町・横川町・牧園町・霧島町・隼人町・福山町の1市6町が合併して誕生しました。広大な市域には様々な歴史・文化財があります。
霧島山と桜島という現在も活動する火山に囲まれた立地から、火山に関わる文化財が多いのが特徴です。世界で霧島山の限られた地域(えびの高原)しか自生しないノカイドウがあります。また、姶良カルデラ・加久藤カルデラといった巨大カルデラや火山に挟まれた場所に位置することで、南九州における複数のカルデラ噴火の火砕流堆積物が一度に観察できる天降川の火砕流堆積物があり、加工しやすい溶結凝灰岩を掘った赤水の岩堂観音などの史跡もあります。火山は信仰の対象ともなり、霧島山信仰の神社として霧島神宮、桜島信仰から鹿児島神宮が創建されたと考えられています。両神宮とも、記紀神話のなかの建国神話に関わる神が祀られ、神話伝承地として今も信仰を集めています。特に霧島神宮の社殿は、霧島山の噴火によって度々焼失を繰り返し、現在の社殿も溶岩の上に建っています。
上野原遺跡の発掘調査によって、縄文時代の1万年以上前から人々が霧島の地に定住していたことがわかりました。上野原遺跡には上野原縄文の森(外部サイトへリンク)と鹿児島県立埋蔵文化財センター(外部サイトへリンク)が併設し、様々な地域の指定文化財(考古資料)が所蔵され、鹿児島県の埋蔵文化財調査の中心地となっています。
奈良時代、南九州に住んでいた人々は、当時の朝廷から「隼人」と呼ばれ、独自の生活をしていました。713年に大隅国が建国され、現在の国分地域に国府が設置され、政治の中心地となりました。隼人と呼ばれた人々は朝廷の支配に抗い、大隅国司を殺害して大きな戦いが起こります。国分平野が隼人と朝廷軍の最後の戦いの地と考えられています。隼人塚は、この戦いで命を落とした隼人の供養のために建てられたものだと考えられ(現在は別の説が有力とされる)、隼人塚があることから隼人町の地名ができました。
聖武天皇の代になると、疫病退散や平和を願って国分寺建立の詔が出され、全国に国分寺が建てられます。最南端の国分寺として大隅国分寺が建立され、現在の国分の地名の由来にもなりました。
鹿児島神宮は、江戸時代まで大隅正八幡宮と呼ばれ、南九州を代表する神社でした。1000年以上前から栄え、中心となった社家と呼ばれる人々が正八幡宮の運営を担い、特にトップの四社家の館跡は、境内と別当寺の弥勒院跡とともに国指定史跡にもなっています。島津氏とも良好な関係を築き、紺糸威鎧兜大袖付・色々威胴丸兜大袖付・刀など、島津氏から寄進品も多く残ります。島津氏によって、現在の社殿が建設され、そのいきさつについても境内の石灯籠に刻まれています。鹿児島神宮文書・古印など、豊富な資料が残っています。
海外のものが集積するところでもあり、周辺からは東南アジアなど外国からの陶器などが発掘されます。特に神宮で所蔵している陶磁器は、中世に中国やタイなどで造られたものと、それを幕末に模写したものがあります。江戸時代に建てられた社殿の天井絵には、日本原産ではない植物も描かれ、海を通じて様々なものが鹿児島神宮に集まっていることがわかります。
戦国島津4兄弟の長男・島津義久は、豊臣秀吉の九州征伐のあと、大隅日向を領地として宛がわれたため、隼人にある富隈城を拠点としました。海岸線に富隈城を築き、戦いでなく交易に重きをおいたと考えられ、富隈の船が琉球に航海できるように義久が許可した朱印状が残っています。また、琉球からも人の往来があったとされ、琉球の人の真似をして始まったとされる川尻琉球人踊りが現在も伝統芸能として残っています。富隈城が義久の城であったことを忘れないようにするために江戸時代に建てられた隅州富隈新松林記(石碑)も残っています。
慶長9年(1604)になると、国分に国分新城(別名:舞鶴城)を築き、移り住んで晩年を過ごします。国分新城跡には、家臣に下賜されたとする朱門が移設されて残っています。義久の墓は、島津家の墓所である福昌寺のほかに、霧島市内の金剛寺跡と徳待庵跡の2ヶ所に残っています。
霧島市横川町には金山で栄えた山ヶ野地域があります。山ヶ野金山は、宮之城領主の島津久通によって発見され、江戸時代には一時日本一の産金量を誇る金山でした。発見した島津久通の遺徳を偲んだ徳源社もあります。山ヶ野地域は金山の利益で栄え、加治木の港まで道路が整備されました。加治木から山ヶ野まで三つの金山橋が造られ、溝辺に第三橋が残っています。
菅原神社磨崖仏や十三仏などの仏教的な文化財が残るように、霧島市内にもかつては多くの寺院がありました。しかしながら明治初年、薩摩藩では徹底した廃仏毀釈(仏教に関わるものを全て破壊する運動)が行なわれ、すべての寺が壊されてしまいました。華林寺墓地は霧島神宮の別当寺だった華林寺の住職などの墓が残る場所です。その他、三光院墓碑群・弥勒院・正興寺等墓域・卵塔群という、かつての寺の名残が墓石・石塔として残ってかつての寺の存在と廃仏毀釈の凄惨さを物語っています。
火山に囲まれた土地は、火山灰などが堆積した土壌であり、稲作に不適でした。江戸時代になると、土地の改良や用水路の完成などにより、田んぼが多く作られるようになります。生活基盤である米がたくさんとれることを祈って、田の神がたくさん作られます。代表的なものが宮内の田の神で、それ以外にも溝辺・横川・牧園に市指定文化財があります。国分平野を流れる天降川は、大規模な川筋直しが行なわれ、田んぼが作れる土地が広がりました。用水路を作る際も、トンネルが崩れないよう2連洞穴(鼻んす)が掘られたり、用水路の上を川が通るという平熊の石橋が造られたり、様々な工夫がなされています。
市内には特徴的な建物が多く存在しています。国宝・重要文化財の霧島神宮の社殿は、内外に装飾がなされ、溶岩の傾斜の上に建つという珍しい形をしていて、正面から美しい姿を見ることができます。近くには、戦中に教員養成を行なった建物である霧島民芸村があります。県内随一の大きさを誇る木造建築で、近代に建てられた寝殿造りとして貴重です。
重要文化財である鹿児島神宮は全国的に見ても巨大な社殿であり、華麗な装飾も施されています。鹿児島神宮境内にある正宮造替の石灯籠は、鹿児島神宮社殿が宝暦6年に完成したことを物語る貴重な証拠です。台明寺日枝神社は、全国でも唯一の七間社流造という細長い形をした社殿があります。海のすぐ側にある旧田中家別邸は、近代において洋室が日本住宅に入り込んでいく過程を見ることができます。そのほか、県内最古の木造駅舎である大隅横川駅・嘉例川駅、妙見発電所のヘッドタンクなど近代の特徴的な建物が国の登録文化財になっています。
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