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更新日:2024年3月18日

指定文化財の概要【隼人】

1.紺糸威鎧兜大袖付(こんいとおどしよろいかぶとおおそでつき) 一領

この鎧は、島津貴久時代の家老樺山幸久が鹿児島神宮に寄進したものと伝えられています。黒漆の盛上げ本小札を紺糸で威したもので、南北朝時代の作です。胴丸や腹巻が盛んになりつつあった時代で、兜の作りも極めて精巧です。

紺糸威鎧兜大袖付 一領写真

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2.色々威胴丸兜大袖付(いろいろおどしどうまるかぶとおおそでつき) 二領

この二領の胴丸は、永禄元年(1558)、島津貴久が鹿児島神宮に寄進したものです。精巧な盛上げ本小札を、1領は紅、白、萌黄の組糸で威し、もう1領は白、紅、紫の組糸で威したほとんど胴形式の胴丸で、室町時代末期の作です。

色々威胴丸兜大袖付 二領写真

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3.刀 銘 相州住秋廣明徳三(かたな めい そうしゅうじゅうあきひろめいとくさん)

南北朝時代の1392年、相模国(神奈川県)で作られ、島津家に伝わったものといわれています。刃長63.6cmの小太刀で「相州住秋廣」「明徳三」の銘のほか、梵字の浮き彫りがあります。

1818年に27代斉興が現在の鹿児島神宮に奉納しましたが、戦後の刀剣類接収で行方不明となっていました。2003年、58年ぶりに神宮に戻り、現在は黎明館に寄託されています。

刀 銘 相州住秋廣明徳三写真1 刀 銘 相州住秋廣明徳三写真2 

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4.隼人塚

康治元年(1142)の刻銘のある大隅国分寺の石塔との比較や発掘調査の成果などから、隼人塚石塔も今からおよそ1000年ほど前の平安時代後期の建造物と見られています。広さ約50平方メートル、高さ約2メートル余りの丘の上に、五重石塔3基と四天王石像4体が立っています。

建立については「殺されたクマソ・隼人の霊を慰めるために建てられた」とか「正国寺という寺の跡」などの諸説があります。

平成10年から11年にかけて、石塔と石像の復元工事が行われ、創建当時の姿が蘇りました。

隼人塚写真

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5.鹿児島神宮本殿及び拝殿 勅使殿 摂社四所神社本殿(かごしまじんぐうほんでんおよびはいでん ちょくしでん せっしゃししょじんじゃほんでん)

鹿児島神宮は、社伝によると和銅元年(708)に創建されたとされ、彦火火出見尊と豊玉比売命が主祭神として祀られています。

『延喜式』(延長5年(927)にまとめられた律令の施行細則)に鹿児島神社の名で薩摩、大隅、日向で唯一の大社として記載されています。平安時代に八幡神が勧請され八幡正宮や大隅正八幡宮と呼ばれるようになりました。

社殿は平安時代後期から戦国期にかけて数回の火災に遭い、その都度再建されてきました。現在の社殿は慶長6年(1601)に造営された社殿がシロアリによって傷みが激しくなったため、宝暦5年(1755)に島津重年の寄進によって工事が始まり、翌年、島津重豪の代に竣工しました。また、摂社四所神社本殿も棟札によって建立年が明らかで、本殿等と同じ計画で建てられたことが分かっており、境内の摂社では建立当時の建物として唯一残っています。なお、工事の経緯については、社殿の西側にある鹿児島県指定有形文化財の「正宮造替の石灯籠」に詳しく書かれています。

本殿は九州でも最大規模で、本殿向拝龍柱や勅使殿の龍の持送など、要所に配した彫刻には地方的特色がみられ、本殿の壁画や拝殿の天井画に加え、極彩色と漆塗で仕上げた仕様など、いずれの建物も豪華で質が高いです。また、全ての建物の柱間の寸法は統一され、高低差を巧みに利用して構成した一体的な計画も特筆され、南九州の近世神社建築を代表する建築として高く評価されています。

鹿児島神宮本殿及び拝殿 勅使殿 摂社四所神社本殿 写真

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6.正国寺跡石仏 三躯(しょうこくじあとせきぶつ さんく)

3躯のうち、光背を背負い高肉彫りに掘り出された如来形坐像と菩薩形立像は、いずれも光背全面に康治元年(1142)の陰刻銘があり、製作年がわかる貴重な遺品です。首の折れた坐像は平安時代の丸彫刻として、現在残っているものが極めて少ない貴重なものです。

正国寺跡石仏 三躯 写真

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7.鹿児島神宮文書

鹿児島神宮の文書は、神宮所蔵となっている『正八幡宮神官命婦職補任状(みょうぶしきぶにんじょう)』(養和元年(1181))や、永久寄託された『酒井季時正宮修理識補任状(さかいすえときしょうぐうしゅうりしきぶにんじょう)』(保安2年(1121))等を合わせ、中世から近世までの文書22通からなっています。巻物仕立(6巻)で桐箱に収納され、同神宮宝殿に保管されています。

鹿児島神宮文書写真

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8.宮内の田の神

この田の神像は、鹿児島神宮下の御神田の場所に鎮座しています。灰白質の粗い石質で作られ、顔は翁面に似て横幅広く、顎ひげがあります。高さ91cmで大きなシキをかぶり、右手にメシゲ、左手には椀を抱えるように持っています。農作業姿神舞型の典型的なものです。天明元年(1781)造立。

旧暦5月5日(今はこれに近い日曜日)の鹿児島神宮のお田植祭には、この前に祭壇が作られ、田の神舞が奉納され、早乙女早男が田植えをします。

宮内の田の神写真

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9.平熊の石橋及び石洗越 附(つけたり)石洗越の碑・水神碑

平熊の石橋は、松永用水路上に架かる石橋です。人の渡る石橋というよりは、山から流れ出す谷川水を越させるための石橋といえます。

石橋の上には石畳が敷かれ、谷川水はこれを越えて2mほどの落差の落としで排水されています。地元の人たちは、松永用水に直接流れ込んでいた谷川水が、大雨の時には溢れて用水路を決壊させるので、用水路を越す形に改造したと伝えています。

石洗越の碑 安永6年(1777) 水神碑 宝暦11年(1761)

平熊の石橋及び石洗越附 石洗越の碑・水神碑写真1 平熊の石橋及び石洗越附 石洗越の碑・水神碑写真2

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10.辻の角の保食神社(うけもちじんじゃ)

辻の角の保食神社の建物は、元は宮内小学校の所にあった弥勒院脇の白鷺池の弁財天堂で、明治初年の廃仏毀釈の後、現在地に移築された物と伝えられます。

神社本殿は、四尺四方の正方形の平面に入母屋造りの屋根を載せ、正面に唐破風が設けられています。

辻の角の保食神社写真

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11.鹿児島神宮所蔵陶磁器

鹿児島神宮に宝物として伝えられてきている陶磁器の中に、14~16世紀に作られた中国産7点、タイ産1点の計8点と、19世紀に作られたそれらの写し8点の計16点があります。写しについては、形状や青磁色などほぼ同じものが再現されており、乾燥や焼成などによる変形や発色の違いといった偶然の要素を克服し完成させた、当時の陶工の技量の高さに驚きます。当時の技法を伝えるものとして非常に貴重なものです。また、中国産、タイ産の陶磁器についても、渡来品である点、写しの見本となった点において貴重なものです。

近年、神宮周辺の発掘調査においても海外の陶磁器片が多数出土しています。

鹿児島神宮宝物陶磁器写真

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12.日秀上人(にっしゅうしょうにん)遺品関係資料

日秀上人は真言宗の高僧で、金峯山神照寺三光院というお寺を建てましたが、明治初年の廃仏毀釈によって日秀神社に変わりました。

日秀上人は、永禄3年(1560)の鹿児島神宮の再建にも功績があったといわれています。

日秀神社には上人に関する資料が多数残っており、現在は隼人歴史民俗資料館に展示してあります。

日秀上人遺品関係資料写真

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13.鹿児島神宮四天王石像

神宮境内にある隼人歴史民俗資料館の庭から発見された石像。腰の辺りで二つに分断されています。

兜を深くかぶり、大きく剥いた眼の造りなどが隼人塚四天王石像に非常によく似ていますが、神宮四天王石像の方は彫りがやや甘い感じがします。当地の四天王石像の流れや傾向を知る上で非常に貴重な資料です。

鹿児島神宮四天王石像写真

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14.神宮古印

鹿児島神宮に古くから伝わる銅印で、元正天皇の奉納と伝えられています。印面の大きさ5.2cm四方。文面は「八幡宮印」。同印の押された古文書には、酒井季時補任状、保安2年(1121)、藤原太子補任状、養和元年(1181)、祢寝文書の大隅正八幡宮政所下文、保安2年などがあります。

これから推察すると、神宮古印は800年以上も前の物であることは確かで、八幡宮(鹿児島神宮)の歴史を証明する証拠物件として価値が高い資料です。

神宮古印写真

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15.十八日の馬

旧暦1月18日(現在はそれに近い日曜日)に鹿児島神宮初午祭に奉納される「鈴かけ馬踊り」のこと。地元では祭り日に因んで、「十八日の馬」と呼んでいます。

馬が太鼓・三味線・鉦の伴奏に合わせて首を振り、足でステップを踏みながら踊ります。その後を人間の踊り連が、ハンヤ節に似たテンポの唄に合わせて踊りながら付き従います。

室町時代に日秀上人、島津貴久、正八幡神官・桑幡氏の3人が、一夜に馬頭観音のお告げを夢見て、馬頭観音堂を建てたことに由来するといわれています。牛馬守護・五穀豊穣・家内安全・厄除けなどを祈る伝統芸能です。

十八日の馬写真

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16.川尻琉球人踊り

島津義久公が富隈城或いは舞鶴城に居城していた江戸時代の初め頃、琉球の人々との往来がありました。その行列を目にした川尻の人が行き交う行列を真似て三味線を弾き歌を歌いつつ、おもしろおかしく楽しい踊りを仕立てて伝え伝えてきた踊りが琉球人踊りそのものの始まりだと言われています。

琉球風の髪型を紫の布で飾り、琉球がすりに、青の手甲に脚半・白の腰巻き・青の前掛けにわらじを履き、道行き、琉球人踊りやんばる・大和人(ヤマトチュウ)奴踊り・伊予節そして最後にまた道行きの五部構成で、鉦・太鼓・三味線に合わせて四つ竹を鳴らして踊ります。

子供達は琉球がすりの右肩袖を脱ぎ、緋の襦袢に緋の腰巻きという姿で、踊りを披露します。

手と手を、心と心を結び、喜び楽しみを共有し、世代時代世紀を乗り越え、集落の連携を拡げ固めながら、川尻集落の人々が代々受け継いできた琉球人踊りは、保存会のもと地区全体で踊りの伝承と披露に取り組んでいます。

  • 平成3年3月31日指定(市指定無形民俗文化財)
  • 所在地:霧島市隼人町見次川尻

川尻琉球人踊り写真

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17.湯本大権現碑

旧隼人町姫城の清姫温泉内にあります。僧明源、鎌倉時代の永仁元年(1293)の銘があることから、碑の建てられたのは鎌倉時代の後半期で、明源というお坊さんがお湯の出たことを記念して、湯源に石をご神体として湯の神様を祭ったものと思われます。

石碑の裏に永禄10年(1567)の追刻があります。それによれば、「石碑は地下5尺(約160cm)の所に埋まっていた。松慶というお坊さんが、四月中旬に三夜共に同じ夢を見て、石碑が地下にあることを知り、それを掘り出した。感激の余り、松慶は経緯を碑の裏に彫り、国土安穏・万民の幸せを祈り、再び碑を建て直した。」とあります。

姫城地区の温泉の起源を知る上で重要な石碑です。

湯本大権現碑写真

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18.隅州富隈新松林記

島津氏16代義久が築城した富隈城内にあります。高さ121cm、横幅44cm、厚み32cmの石碑。富隈城が義久の居城であったことが忘れ去られるのを恐れ、国分地頭の赤松大夫が高千穂峰から松苗百余株を移植し、遺跡であることを世人知らしめようとしたことなどが漢文で刻まれています。寛政11年(1794)建立。

隅州冨隈新松林記写真

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19.大隅国桑原郡西国分郷鑿溝崇水神記

宮内原用水の起点、水天渕の取水口に立つ用水路完成の経緯を記した記念碑です。

宮内原用水は、汾陽盛常(かわみなみもりつね)を工事奉行として、正徳元年(1711)に工事が始められ、正徳6年(1716)完成しました。用水路は日当山から鹿児島神宮前を経由し、隼人体育館の手前で浜之市・住吉方面と小田・野久美田方面に分かれます。

水神碑は享保2年(1717)に建立されています。

大隅国桑原郡西国分郷鑿溝崇水神記写真

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20.菅原神社磨崖仏

磨崖仏は、自然の岩や崖面を削り、仏像や梵字等を彫ったものです。

普通、2体、4体、13体といった風にセットで彫られています。右手神社参道横には1体のみ11面観音が彫られ、「天神御本地」の刻字もみえます。年代は天正~慶長年代で、神社との関係も注目されます。

菅原神社磨崖仏写真

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21.三光院墓碑群

鹿児島神宮西側の朝日集落にあります。現日秀神社の所には日秀上人によって開かれた三光院というお寺がありましたが、明治初年の廃仏毀釈により消滅しました。その跡に歴代住職の墓石や古石塔類が多数残っています。

三光院墓碑群写真

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22.空順上人入定石室

獅子尾丘(通称シッノオカ)にあります。空順上人という真言宗のお坊さんが、願を立てて、生きたまま石室にこもり、亡くなったところといわれています。空順上人は、江戸時代、正徳・享保の頃(今から約270年前)の人です。

島津家の御用僧のような人で、お祈りにより数々の奇跡を行い、特に阿久根の大火を止めたり、日照りの時に雨を降らせたりしたといわれています。今でも火の神様として信仰されています。

空順上人入定石室写真

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23.弥勒院・正興寺等墓域

宮内地区公民館の裏にあります。元は公民館周辺の田んぼの土手などに散在していた墓石を一箇所にまとめ、復元したものです。臨済禅宗の寺であった正興寺の歴代住職(室町時代~江戸時代)の墓が主で、宮内小学校の所にあった正八幡宮の別当寺、弥勒院の住職の墓なども含まれています。

正興寺の坊さんたちの墓石は、室町時代に薩摩で盛んになった漢学の一派「薩南学派」の系譜を引く人たちのもので、漢学史研究にとって貴重な遺物です。

弥勒院・正興寺等墓域写真

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24.富隈城跡

島津義久が文禄4年(1595)から慶長9年(1604)まで、足掛け10年居住した城です。秀吉の島津征伐に敗れた義久が、上をはばかって謹慎の意を表した隠居城といわれています。長浜城のような山を利用した城と違って、平野に築いた城(平城(ひらじろ))です。

江夏友賢が設計に携わり、石垣は肥後(熊本)八代の石工が積んだものと見られています。石垣の南東隅には、加藤清正寄進と伝えられる清正石という巨石があります。

富隈城跡写真

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25.薩摩義士山元八兵衛定矩の墓 附(つけたり)山元八兵衛定矩母の墓

隼人町住吉墓地にあります。宝暦4年(1754)から5年(1755)にかけて木曽川治水工事に従事した薩摩藩士、山元八兵衛とその母の墓石です。

山元八兵衛は、勘定方(会計係)として治水工事に加わったと伝えられています。故あって八兵衛は切腹し、遺体は三重県桑名市海蔵寺に葬られました。住吉墓地になぜ八兵衛の墓があるのか謎でしたが、両方まぎれもなく本物の墓であることが調査によって確かめられました。住吉墓地の墓は遺髪を納めたものと考えられています。

没年 宝暦4年甲戌 11月21日

法名 悦岩共忻居士

薩摩義士山元八兵衛定矩の墓付 山元八兵衛定矩母の墓写真

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26.沢家墓碑群

正八幡宮の社家(田所職)であった沢家の墓地。高さ約1mの高さの丘に40枚余りの板碑が長四角に配置され、その中に五輪塔3基、三重石塔1基が立っています。

ここの板碑は、額の部分(上)と身の部分(下)と二重に梵字が刻まれています。梵字は種字といってそれぞれ仏尊を表すと考えられますが、いまだ全体的な構成については十分解明されていません。

身の部分には、梵字の横に「南無阿弥陀佛」と墨で書かれているのが今も読み取れます。三重石塔の台石に延應元年(1239)、自然石柱に嘉禎三年(1237)の年号が刻まれています。これにより沢家墓碑群は、鎌倉時代の中頃に造られたと推定されます。

沢家墓碑群は、鎌倉時代の絵草子などに描かれた墓地の形式を残した遺跡として重要であり、社家も仏教文化(密教)の影響を強く受けていたことが伺える貴重な遺跡と評価されています。

沢家墓碑群写真

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27.宮坂貝塚

鹿児島神宮裏参道の上方にある縄文時代の貝塚です。宮坂貝塚は平成7年、鹿児島神宮が自動車道として山林を切り開いたとき発見されました。

貝塚の中からは、ハマグリ・カキ・アサリなどの貝殻のほか、鹿の角・石製の矢じり・土器の破片などが発見されています。宮坂貝塚の時代は今から7300年ほど前の縄文時代早期と考えられています。鹿児島県内でも最古の部類に入るとみられています。

宮坂貝塚は市内の数少ない貝塚遺跡として貴重な遺跡です。

宮坂貝塚写真

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28.内山田の鼻んす(二連隧道)

隼人町西光寺の水天渕から取り入れられた宮内原用水が通っている2連のトンネルで、形状が人の鼻の穴に似ていることから、俗称「鼻んす」と呼んでいます。

小山の下を穿ち、中央を柱にして残し、左右にトンネルを開けています。トンネルの強度を保つため、2本に分けて水を流す方法を採ったものと考えられます。

宮内原用水は、今から約300年前の正徳元年(1711)に起工し、正徳6年(1716)に完成しました。鼻んすもこのとき開通したものと思われ、江戸時代の土木技術と先人の水利開発の歴史を知ることができる史跡として市の文化財に指定されました。

内山田の鼻んす(二連隧道)写真

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29.荒瀬城跡のイチイガシ

隼人町湯田の荒瀬城跡にあります。イチイガシは、幹の太さが地上1.5mの所で約6.2m、根回りが約10m余りあります。高さは約26mほどあります。

樹齢については、確定できる資料はありませんが、地元では「千年ガシ」と呼んでいるようです。

荒瀬城跡のイチイガシ写真

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30.JR肥薩線嘉例川駅駅舎 一棟

鹿児島県の鉄道は、明治34年(1901)に鹿児島~国分(現隼人)駅間で開通し、2年後の明治36年(1903)に国分(現隼人)~吉松間が開通しました。

これに伴い、嘉例川駅が開設され、明治36年1月15日に開業しました。

明治42年(1909)には吉松~人吉間が開通し、昭和2年、隼人から人吉を結ぶ線は、「鹿児島線」から「肥薩線」へと名称を変更しました。

交通網の発達、自動車の普及など、時代の流れにより、昭和59年に無人駅となります。

平成15年、旧隼人町が駅舎を購入し、翌年には特急「はやとの風」の運行が始まりました。

開業100年を超えた駅舎は、当時の造りを色濃く残す歴史ある大変貴重な建物です。

JR肥薩線嘉例川駅駅舎 一棟写真

31.大隅正八幡宮(しょうはちまんぐう)境内及び社家跡

鹿児島神宮は、中世「大隅正八幡宮」・「国分八幡」などと呼ばれ、四社家を中心に、正八幡宮を支える神職が数多く居住していました。また、正八幡宮の別当寺として現在の宮内小学校に弥勒院がありました。四社家とは「桑幡氏」「留守氏」「沢氏」「最勝寺氏」のことで、なかでも「桑幡氏館跡」は南北90メートル、東西100メートルの方形区画の敷地があったと考えられています。

大隅正八幡宮は、この頃大隅国の一宮とされ、国の4割強を勢力下に置き繁栄しました。境内と弥勒院跡をはじめ、四社家の館跡からは多数の国内の土器や陶器、中国や東南アジア等海外の陶磁器が多量に出土しました。このことから、京都や鎌倉、琉球や東南アジアとの異文化交流の拠点であったことが確認できる稀有な遺跡です。

大隅正八幡宮の画像 大隅正八幡宮の画像2

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32.正宮造替(しょうぐうつくりかえ)の石灯籠

宝暦6(1756)年に、正宮(現在の鹿児島神宮)内に奉納寄進された「琴柱灯籠」と呼ばれる二脚付の石灯籠です。

脚の表側には、宝殿の改築について銘文が刻まれており、正宮造替を明示する貴重な資料です。

また、常夜灯として献灯された本灯籠は、江戸中期から存続する稀少な変形灯籠の一種であり、修復等もなく、ほぼ完形で残っているということから、非常に貴重です。

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33.早鈴神社本殿

早鈴神社は嘉吉4年(1444)に勧請されたと古記の棟札に記されている神社です。島津義久が雨乞いの歌を読んで奉納したことにより「雨乞いの宮」と呼ばれています。本殿の造りは三間社流造(さんげんしゃながれづくり)です。屋根は杮葺き(こけらぶき)で、両側端に鬼板を置いている珍しい形状になります。また、垂木が密に等間隔で整然と並んでいる本繁垂木(ほんしげたるき)の配列になっています。建物は、棟札の記述から元禄3年(1690)に建てられたものと考えられます。元禄期まで遡る神社建築は鹿児島県内では少なく、非常に貴重です。

現在、本殿は覆屋に覆われていて外から見ることができませんが、この覆屋によって貴重な本殿が保護されていました。

早鈴神社1 早鈴神社2

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34.高木家住宅 主屋 石倉

南日本銀行の前身である鹿児島無尽の創業に関わり、西国分村の村議でもあった高木時吉が昭和2年(1927)に建築した邸宅です。木造平屋の和風建築で、12畳半の洋館を応接間として併設しています。和風建築に洋間(洋館)が取り込まれていく過程を確認できます。300平方メートル超の邸宅建築であり、民間のものとしては県内随一の規模です。

個人宅であるため、現在は非公開。

  • 平成31年1月17日指定(市指定文化財)
  • 所在地:霧島市隼人町真孝

 

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お問い合わせ

教育部社会教育課文化財グループ

〒899-4394鹿児島県霧島市国分中央三丁目45番1号

電話番号:0995-64-0708

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