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更新日:2024年3月18日
霧島神宮は、社伝によると欽明天皇の代(6世紀中ごろ)に慶胤という僧が背門丘(せとお・高千穂峰と御鉢の中間)に社殿を建てたのが始まりとされています。霧島山の噴火によって焼失したあと、天暦年間(10世紀中ごろ)に性空上人が瀬多尾越(高千穂河原周辺)に再興しましたが、再び噴火によって焼失し、霧島田口の待世(霧島中学校近く)に移ります。
文明16年(1484)に島津氏によって現在の場所に再興され、社殿が造られますが、その後に火事で焼失し、正徳5年(1715)に薩摩藩主島津吉貴によって寄進されたのが現在の社殿です。
社殿は傾斜地に石垣を築いて造成され、上から本殿・幣殿・拝殿・登廊下・勅使殿と並び、正面から見ると屋根が前後に重なる荘厳な景観になります。社殿それぞれが国宝と重要文化財に指定されています。
本殿の規模は全国的に見ても大きく、内陣(ないじん・神を祀る最奥部)まで華麗に装飾されています。高低差がある本殿と拝殿(はいでん)を幣殿(へいでん)で繋ぎ、一棟の建物となっています。建物全体が彫刻や絵画でくまなく装飾され、極彩色・漆塗・朱塗で豪華に彩られていて、近世に発達した建築装飾意匠の集大成のひとつとされます。
本殿の龍柱(りゅうばしら・龍が彫刻された向拝柱)などをはじめ、東アジアの文化を取り入れた社殿でもあることから文化史的な意義も深いとされます。
霧島神宮社殿は高低差を利用して建てられていて、正面平地にある勅使殿(ちょくしでん)と、斜面上の拝殿を登廊下で繋いでいます。勅使殿は唐破風で、松や唐獅子牡丹など彫刻で彩られています。登廊下と勅使殿も1715年に建築された建物であり、社殿を構成する主要な建物として重要文化財に指定されています。
勅使殿の前には、境内を守る門守神社(かどもりじんじゃ)が2棟並んで配置され、また、登廊下の西側には渡り廊下で繋がった神饌所(しんせんしょ・お供え物などの準備を行う場所)があり、同時期に建てられたものとして附(つけたり)指定されています。
昭和53年4月1日、町の文化財に指定されましたが、さらに平成3年3月15日、県無形民俗文化財に指定されました。
田の神舞は、旧暦2月4日に霧島神宮で五穀豊穣を祈願する御田植祭が行われますが、この時、神宮の社人である児玉・橋元両家の人たちが神舞を奉納するしきたりで、300年位前から先祖代々引き継がれてきています。
毎年、旧暦2月4日午前10時から祭事が始まり、第一声の太鼓と共に御神牛が「モー」と鳴いて境内を暴れ回り、祭事が終わると同時に御田植の神事が始まります。
今から300年位前、霧島神宮に祈願するために奉納された九つの面です。
主に伎楽面・猿田彦面で、当時石工として有名な海老原源左衛門が奉納したと言われています。
神面の数は九つで、この面を拝すれば工面(九面)がよくなるとのことで、拝観に訪れる人も多いです。また、工面がよくなるということから商工業者に信仰されて、屋号や商品などに使われています。但し、一般公開はされておりません。
霧島神宮文書は霧島神宮の所蔵文書で、永禄6年(1563)の島津貴久願文(がんもん)(神仏に対して祈願の意図を表す文書)や島津義久寄進状、島津義弘書状、島津家久書状など、貴重な文書からなっています。巻物仕立てで二巻あります。
現在は、黎明館に寄託されています。
この踊りの由来は色々な説があって、一つに定めにくいようです。
このように、色々な説があります。
棒踊りは、昔からお田植祭や、農耕、祝事、神事の時に奉納されてきました。現在も、狭名田、田口、枦田、桂内の四集落で継承されています。
田口の民家の門脇に水車を設備する時に、地中より掘り出されたものと伝えられています。五輪塔は当時大小二基あったといわれており、これが重ねられ、現在の形状になったようです。
この五輪塔は、誰の供養塔かわかりませんが、水輪に彫られている種子から密教系のものであると推定されます。また、造立年代は、その形態から室町時代以前と推定されます。
五輪塔というのは、五大にかたどった五つの部分からなる塔のことです。地輪は方、水輪は円、火輪は三角、風輪は半月、空輪は宝珠形をしています。平安時中頃から供養塔や墓標として用いられる石造りが多いです。
※塔婆は卒塔婆(ソトバ)の略称です。これは、釈迦の遺骨や遺髪などを納めて高く建設した記念物です。
向田七社神社の境内にあります。
根回り14.8m、樹の高さ約30mで人の胸の高さの樹の周りは6.4mの大木ですが、樹齢ははっきりしていません。
イチイガシは、ブナ科の常緑樹(一年中、葉が緑で落葉しない)で、材質は堅く船の櫓や農・工具の柄、やりの柄等に使われてきました。
新地の民家の敷地内にあります。
幹周り3.9m。根周り5.0m、高さ20mの大きな樹木です。樹齢は分かりませんが、かなりの年数が考えられます。
霧島神宮の社務所は、昭和5年に建築された木造平屋建て、銅板葺、建築面積548平方メートルの建物です。南東を向いて建ち、正面中央には切妻造の玄関を突出し、北に座敷飾りを備えた応接室等、南には中廊下式で斎館や事務室等を配します。良材を用いた上品な造りの大規模和風建築で、複雑な平面に対応した屋根を巧妙に架け、落ち着いた景観を構成しています。
霧島山錫杖院華林寺は、西御在所霧島六所権現社(現在の霧島神宮)の別当寺で、鹿児島市にあった大乗院の末寺でした。欽明天皇の時に慶胤上人が開山したと言い伝えられており、のちに霧島山の噴火によって建物が焼け、応和年中(961~964)に性空上人が中興して天台宗となりましたが、文暦元(新暦1235)年の噴火で焼けてしまいました。その後、文明年中(1469~1487)に、島津家第11代・忠昌が兼慶上人に再建させ、真言宗に改められました。
華林寺は多くの堂塔があり、この地域を代表する寺院でしたが、明治初頭の廃仏毀釈によって失われてしまい、現在ではその面影を伺い知ることはできません。しかし、この墓地には近世以降、華林寺に関係のあった僧侶の墓が多数残されており、また、周辺の真言宗寺院の名前も墓石に刻まれていることから、近世の華林寺の様子や霧島市域の仏教史を知る上でとても貴重であるので、市の史跡に指定されました。
霧島民芸村は、建坪300坪の巨大木造建築で、昭和15年(1940)に作られました。戦時下の教育に対応すべく、中堅指導者の再教育を目的として建てられたものです。
主屋である展示販売棟は屋久杉の格天井の84畳敷の大広間があり、周りに廊下にまわしている寝殿造に倣った建築です。屋根は鉄平石で葺かれており、県内では唯一です。
廊下でつながっている旧遥拝殿には昭和天皇に下賜されたという2本の床柱が正面の床の間に安置されていて、三方に廊下を廻している観音堂風の伝統建築です。
現在、陶芸等の工房棟として使われている場所は、畳敷きの宿泊所として使用されていたと考えられます。
寝殿造に倣った伝統建築であり、県内で最大規模の木造建築であり、戦時下に建てられた研修施設がそのまま残っているという点で非常に貴重です。
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