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更新日:2024年3月18日
竹子宮川内上牟田と旧横川町との境界を流れる久留味川に架かっています。迫持ち式(アーチ)の石橋です。明治12年頃、島津氏が山ヶ野金山の金鉱を運搬するために、加治木舌出しを起点とした道路を開きました。その折布越下の井出向の橋を金山橋(第一橋)、溝辺町有川大王橋を金山橋(第二橋)、上牟田橋を金山橋(第三橋)と命名したものです。欄干部分はすでに欠落していますが、保存状態は良好です。
溝辺町の北部、大字竹子祝儀園地区の水田地帯を見渡す国道504号線沿いにあります。
上部に円のある板碑を背に座し、右手に大きなしゃもじを持った田ノ神像です。
田植えの時には早苗、刈り入れの時は稲穂が供えられます。衣装はベニガラで、顔は米の粉で、目・鼻・口は墨で彩色され、きれいな姿で祭りに出る習わしでした。
多少の風化は見られるものの、状態は良好です。地域の方々が花やお供え物をあげ、大事に保存しています。
像には、「天明四甲辰八月吉日奉寄進康申○有川一一○」と刻まれ、顔の下部分が一部欠けています。
田植えには早苗が、刈り入れの時は稲穂が供えられました。衣装はベニガラで、顔は米の粉、目・鼻・口は墨で化粧して豊作を祈念していました。石原麦牟田地区の畦にあったものを工場敷地造成のため、昭和49年1月20日に旧中央公民館の庭に移転し、さらに、平成5年10月9日みそめ館(現溝辺公民館)の開館に合わせて現在地に移しました。
以来、溝辺総合支所教育振興課で管理しています。
溝辺城は、薩・隅・日の地理纂考(薩摩・大隅・日向の一部の地誌を編集したもので、明治10年頃完成)に「溝辺城ハ溝辺村(今ノ麓)二アリ元弘ノ頃、溝辺孫太郎居城ナリ。事跡詳ナラス」とありますが、鎌倉時代の末期、後醍醐天皇(九十六代)元弘二年(1332)頃、溝辺孫太郎という豪族の居城(山城)として築かれたと伝えられています。
城の形状は、東西約50m、南北約400mの細長い丘陵地で、北側から林道が内部に延びており、この辺りが城の入口と思われます。この林道を奥に進むと、人力によってなされたと思われる切り通しの跡や、井戸と思われる跡が確認されています。頂部は比較的平坦に土がならされ、いくつかの段状になっているなど、山城としての形状がうかがわれます。
昔から溝辺町のなかでは唯一のまとまった田地が竹子地区でした。網掛川の上流地域ですが、水不足に悩まされていました。その対策として、1660年頃と推定されますが、旧薩摩郡永野町(薩摩町)の段集落の川に井堰を設け、約6kmにわたって山を刳り貫き、久留味川の底を渡り、宮川内まで水路を通して水田の灌漑に供したものです。しかし、水の取り入れ口の段集落下流域の開墾に伴い、水権利の問題も絡み、竹子地区への通水は困難となり、いつしか廃絶してしまいました。
民有地の土手に、わずかに穴の痕跡がありましたが、年月の経過により崩れ落ち、今ではその場所にあったというだけの確認しかできません。
溝辺町橋之口集落の岩元家代々のもので、唯一まとまって見られる最も古い武士の墓です。確認できる墓で最も古いものは、「岩元右衛門妻」の墓で、明和4年没とあるので1767年、江戸時代の中期頃からのものと考えられます。集落の共同墓地であり、古い墓石と近年の墓石が共存しています。
住民の方々により年間を通して管理されており、多少の風化は見られるものの、保存状態は良好です。
心慶寺は溝辺城の南面麓に位置し、越前守(えちぜんのかみ)肝付兼固(きもつきけんご)が溝辺の領主となり、溝辺城に移転後、肝付家の菩提寺(ぼだいじ)として建立されました。宗派は曹洞宗(そうとうしゅう)、福昌寺の末寺です。本尊は地蔵菩薩で開山は心慶良信(りょうしん)和尚(おしょう)(福昌寺五世)でした。
緩やかな山林傾斜地に寄り添うように墓石が建っています。以前は、山手にあったものが度重なる土砂崩れで現在の地になったとも言われています。
周囲は山林と化しているものの、三基の住僧の墓碑やその他の者の墓碑と、お寺の門前周辺にあったと思われる常夜燈の石燈があるなど、昔の名残を留め、廃墟の跡のむなしさと物寂しさを物語っています。三基の住僧の墓碑のなかの一つが貫周(かんしゅう)という僧侶の墓であることが確認されています。
鷹屋神社の境内に立っており、樹齢数百年といわれていますが、詳細については不明です。
幹の一部に穴が開いており、鉄板で補修しています。このように一部、損傷が見られるものの、樹木の勢力が良好で、夏には青葉が生い茂り、若々しい姿を見せてくれます。
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