ホーム > 教育・文化・スポーツ > 歴史・文化財 > 文化財 > 指定文化財 > 指定文化財の概要【横川】
ここから本文です。
更新日:2024年3月18日
阿 | 吽 |
安良小学校入り口前の道路に面する高台の洞穴の中にあります。高さ60cmの衣冠(いかん)束帯型(そくたいかた)座像(神像型)で、背面に正保元年(1644)十一月吉日の銘が読みとれます。肢体はほぼ完全で郷士名の刻字が見られます。
昔、紫尾田中郡の上の山中の洞穴にあったものを戦後移転しました。
横川町上ノの迫田家の敷地内にあります。高さ40cmの神職型座像で、享保十八年丑三月吉日の銘があります。両手首を欠損していますが、あぐらをかいて舌を出し、リラックスした容姿は特異なものが感じられます。姶良郡内でも古い年代のもので大変貴重です。
横川町古城地区の道路端にあります。高さ70cmの神職型で舟形後背にした半浮き彫りの田の神像です。
享和三年三月三日(1803)の銘があり、三角形の烏帽子が特徴です。
田の神像の顔にあんこ餅を塗りつける風習が今も受け継がれています。
馬渡公民館の中にあります。
高さ62cmの田の神舞神職型の田の神像で、寛政四年(1792)九月吉日の銘があります。
横川町下ノの山住家の庭にあります。
高さ61cmの神職型座像で、寛保三年(1743)の銘があります。
姿態は精巧でリアルで刻字により年代及び庚申講を確定できます。
黒葛原用水路堰脇の草原に立っています。
高さ78cmの神職型座像です。
年代は不明ですが、享保八年(1724)以降ではないかと思われます。
洋風を感じさせる一風変わった容姿が珍しい田の神です。
寺跡は杉林となっており、岩窟の中に木仏像と不動明王石像が安置されていましたが、平成18年(2006)に木仏像が紛失しました。
その紛失した木仏像は来福寺の本尊十一面観世音像で永正6年(1509)正椿(まさかめ)の作といわれています。また、寺跡の裏の雑木林に当時の住職たちの墓が数十基立っています。
栗野徳元寺第4世の住職三了和尚の開山といわれています。寺の位置は、横川町中ノ川北馬場で、北には雑木林が生い茂っています。この山中に住職たちの墓20基が3段に分かれて建っています。
仙寿寺は、横川城主北原氏の菩提所であったと伝えられています。
安良神社は、鹿児島神宮、霧島神宮、加治木春日神宮、福山宮浦宮とともに尊び崇められてきました。祭神は安良大明神、十一面観世音菩薩、安良姫の母君など、神仏が一緒になった神社で創建は和銅元年(708)の頃と見られます。
腰越神社は、安良姫の母を祀る神社です。
母は安良姫が罪人として都落ちしてから、姫の悲運の身を嘆き、姫の後を追って苦難の末小脇にたどり着きましたが、それを知らない村人たちは姫の身を気遣って姫をかくまいました。このため母は前途に絶望を感じ、その夜自害してしまいました。
腰越神社は、明治44年1月安良神社に合祀されたため、神社跡には「腰越神社遺址」と刻まれた石碑が建っています。
山ヶ野金山創業の主、宮之城領主島津久通(徳源公)の遺徳を偲んで祀ったものです。山ヶ野金山は寛永17年(1640)3月に採掘に着手し、島津藩の財政に大きく貢献しました。
徳源公の碑は延宝2年(1674)12月、永野安養院念行寺の境内に建立したものを、明治17年3月22日に現在地に移しました。
横川町上ノ木浦の雑木自然林の中程に錆(さび)矛(ほこ)が立って美しい蘚が生えているあたりがお宮跡といわれていて、冬温かく夏冷たい泉がこんこんと流れて、紫尾田川の源流をなしています。
祭神は瓊々杵尊(ににぎのみこと)の母君万幡豊秋津師比売命(よろずばたとよあきつしひめのみこと)で、居住の跡といわれています。周辺から土器や石斧その他の出土品もあり、横川郷土館に展示しています。
榊原岡の西部の領域2反余りが阿弥陀寺跡といわれています。明治初年までは、頼朝石という石や寺の由来を記した碑があったそうですが、山陵確定の際に土地の人たちが事の煩雑面倒を恐れ、夜密かにその碑石を搬出して埋没したと伝えられています。
寺跡には五輪の塔、供養塔群が多数埋没していて、昭和57年8月1日その一部を発掘し修復を行いました。供養塔の一基に元徳二年(1330)八月の銘が刻まれています。
また、阿弥陀寺の本尊と思われる木像3体は黎明館に保存されています。
湯貝の峯、茶園の丘ともいわれる雑木林の小高い丘です。頂上には檜が生え円形幅約18mの土塚になっています。
彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)の御陵ではないかという伝説もありますが、旧記並びに阿弥陀ケ原の碑文等によると彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)の御陵は、鹿児島神宮を去る4里のところにあると記されており、ちょうどその位置に当たっています。
鎌倉時代の初期、承久元年(1219)、横川藤内兵衛尉時信(とうないひょうえのじょうときのぶ)が城山に築城したもので、別名長尾城ともよばれています。城は横川院の領主の居城で、室町時代の頃から真幸院の領主北原氏の支城となりましたが、永禄5年(1562)北原伊勢守・新助の父子が島津氏に反抗したため、島津義弘・歳久等の攻撃を受け、落城しました。
その後、城は菱刈大和守重猛に与えられましたが、永禄10年重猛の弟隆秋が島津にそむいたため、攻撃を受けました。横川城は島津占領の後廃城となりました。旧横川町は横川城の全容を探索するため昭和61年10月21日から11月29日まで本丸と思われる城跡の発掘調査を実施しました。出土品は横川郷土館に保管されています。
北原民部之助は、横川城主北原伊勢守の弟で、島津の大軍が横川城攻めの時、年齢18歳で奮戦して敵を悩ませました。しかし、敵の大軍に包囲され行きづまり、「北原民部の最後を見て後世の手本にせよ」と叫び、腹部を十文字に掻き切って横川城頭の露と消えました。
この場所は民部塚と呼ばれ、石碑が建てられています。
桁行6間半梁行6間半規模、入母屋造。桟瓦葺の木造2階建てで、通りに面して建っています。1階は表側から北側にかけて土間を設け、南側に座敷を配した伝統的町家の造りですが、2階はたちの高い下見板張りに上げ下げ窓を並べた洋風の造りで際だった存在になっています。
主屋の北側に位置し、東西棟で東妻面を通りに見せて建っています。桁行5間梁間2間半、切妻造、桟瓦葺の2階建てで床組や小屋組を石造外周壁の内側に沿わせた木柱で支持する木骨石造の倉庫です。平入りで南面の戸口を設け、外部の腰は石積みを露わにし、上部は漆喰塗りとします。
東西棟、切妻造、桟瓦葺、平入れの内部に中2階を設けた木骨石造倉庫で、南面に下屋庇を差し掛けてアーチ型の戸口を2カ所設ける他、下屋西端を石壁で囲い庫室としています。
桁行9間梁間4間規模と大きく、商家の繁栄振りを物語っています。
明治36年、隼人の嘉例川駅と同時期に開業しました。戦前から戦後の旧国鉄時代から、主要な交通手段の根拠として栄えましたが、交通網の発達、自動車の普及などにより、昭和60年代前半には無人化となりました。
嘉例川駅とほぼ同一の平面形式で、同時に多くの施設を必要とする鉄道建設の性格をよく表しています。当時の造りを色濃く残す歴史ある大変貴重な建物で、ホームの柱には戦時中の生々しい機銃掃射の弾痕が残っています。
お問い合わせ
より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください