ホーム > 教育・文化・スポーツ > 歴史・文化財 > 文化財 > 民俗芸能 > 民俗芸能紹介【国分】
ここから本文です。
更新日:2024年3月18日
慶長2年(1597)、豊臣秀吉が朝鮮出兵の際、島津義弘をはじめ、三州のつわものどもを出陣させました。その出陣武士の士気を鼓舞するために、鉦や太鼓で出兵を励ましたものが始まりといわれています。国分を中心とし、加治木、栗野周辺の武士が集まったことから、この太鼓踊りがこれらの地域に伝承されたといいます。重久の太鼓踊りは、攻撃的な攻めの体勢をかたどったものとして、350年もこの地方に伝承されています。
現在、重久太鼓踊り保存会によって保存、伝承が図られ、止上神社の例祭や東その山地区の運動会などで披露されています。
重久太鼓踊りと同じく、島津義弘の朝鮮出兵の際、出陣武士の士気を鼓舞するために、鉦や太鼓で出兵を励ましたといわれています。
小鉦・幣振り、鉦・太鼓の縦隊で踊ります。
現在、府中太鼓踊り保存会によって保存、伝承が図られ、府中祓戸神社の例祭や地区の行事などで披露されています。
慶長14年(1609)、島津家久は幕府の許可を得て琉球に進攻しました。琉球はそれ以来、毎年鹿児島と江戸に貢物をすることが恒例となりました。貢物を捧げに訪れた琉球人一行の行列の扮装や踊りが人々を驚かせ、これが琉球人踊りとなって伝承されました。
中国服を着た琉球王1人、傘さし1人、従者20人くらいの行列で、三味線、鉦、太鼓を使って踊ります。
敷根、広瀬、浜之市地区など国分平野の海岸地帯で伝承されていましたが、現在は敷根の琉球人踊り保存会によって保存、伝承が図られ、地区の行事などで披露されています。
参勤交代の時、一行が道中を踊って往来したものが始まりで、名の由来はおどけた踊り「どけおどり」とか「道中踊り」であったという説があります。また、参勤交代の途中、広瀬で休まれた殿様の一行を慰めるため、土地の人によって踊られたともいわれています。
道楽、笠踊り、手踊りの三つがあり、道ひらきのホテ振り役(先導役)を先頭に、手甲をつけ、鉢巻をした踊り手がこれに続きます。
現在、下井道化踊り保存会によって保存、伝承が図られ、地区の行事などで披露されています。
伝来の時期は定かではありませんが、江戸末期か明治初期と推定されています。その頃台明寺集落の地主園休衛門宅に宿を借りていた薩摩半島の木挽職人が、集落の青年たちに手ほどきしたのが始まりとされています。
浴衣に五色のたすきがけをし、たすきの結び目にも五色の飾り布を垂らします。頭には鉢巻を締め、足袋にわらじを履き、六尺棒・三尺刀・かまを持ち、お互いに激しく打ち合いながら、歌に合わせて踊ります。
現在、台明寺棒踊り保存会によって保存、伝承が図られ、三月に日枝神社に奉納されています。
田之神舞、薙刀舞、剣舞があります。
田之神舞は止上神社で例年二月末に行われる豊作を祈願しての農耕行事(御田植え祭)で披露されます。扮装は、花模様の綿入れに、田の神の面をつけ、右手に大きなしゃもじ、左手に鈴を持ち、笛と太鼓の音に合わせて舞います。
薙刀舞・剣舞は毎年七月の止上神社の御神幸祭の時の先払いの儀式の舞です。二月末のお田植え祭にも奉納されます。薙刀舞は白カスリに黒袴、黒のたすきがけ、黒の烏帽子をかぶり、笛と太鼓のリズムに合わせて薙刀を持って舞います。剣舞は白カスリ、白の鉢巻、黒の袴、黒のたすきがけで右手に刀(真剣)を持って舞います。
現在、重久神事神舞保存会によって保存、伝承が図られています。
約500年前、日枝神社の神官が島津藩の命により京都御所へ行き、40余りの神舞を修得してきました。これを清水独特の神舞として代々神官により継承されていました。太平洋戦争で一時途絶えてしまいましたが、昭和57年に復活しました。
鹿児島弁に合わせ、こっけいに踊る女性だけの神舞で、赤袴に紅白のたすき、唐草模様の風呂敷を斜めに背負い、右手に鈴、左手にしゃもじを持って踊ります。
現在、清水田の神舞保存会によって保存、伝承が図られ、毎年三月一日、天御中主神社で奉納されています。
お問い合わせ
より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください