ホーム > 歴史・神話・伝説・文化 > 龍馬・お龍日本最初の新婚旅行地、霧島市
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更新日:2024年6月21日
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年号 |
旧暦 |
新暦 |
事項 |
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1866 |
1月21日 |
3月7日 |
薩長同盟成立。会談は龍馬到着が遅く、龍馬不在のまま京都薩摩藩邸で開かれた。 |
1月23日 |
3月9日 |
24日未明午前2時頃、京都伏見寺寺田屋で三吉慎蔵と共に幕士に襲われ手傷を負うもののピストルで応戦して危機を脱する。大山彦八に救出され薩摩藩邸に囲われる。西郷は兵一個小隊と医師を派遣。 |
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2月5日 |
3月21日 |
薩長連合の確認を求める桂の書簡に裏書きをする。 |
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2月12日 |
3月28日 |
中岡慎太郎入京。龍馬32歳、この頃中岡の仲人でお龍との結婚を正式に披露。 この頃西郷・小松に霧島に傷によく効くという評判の塩浸温泉湯治を勧められる。 |
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2月29日 |
4月14日 |
お龍を連れ、鹿児島に向け京都を出立。 |
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3月1日 |
4月15日 |
大坂の薩摩蔵屋敷に着く。船支度を待つ。 |
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3月4日 |
4月18日 |
薩船「三邦丸」に乗船。小松、西郷、桂久武、吉井幸輔等と鹿児島に向かう。中岡慎太郎、三吉慎三も同道。縁結びのこの旅が日本人の新婚旅行第1号となる。 |
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3月6日 |
4月20日 |
下関で中岡・三吉下船。 |
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3月8日 |
4月23日 |
長崎に寄る。 |
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3月10日 |
4月24日 |
鹿児島着。西郷邸、吉井邸に泊まる。 |
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3月16日 |
4月30日 |
吉井幸輔が誘い、龍馬夫妻塩浸温泉へ出発。 穏やかな錦江湾に雄大に浮かぶ桜島を眺めながら船で浜之市港へ。日当山温泉へ泊まる。 小松帯刀夫妻は3月14日から4月8日まで、25日間霧島栄之尾温泉で湯治中。 |
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3月17日 |
5月1日 |
この日から塩浸温泉で11泊し手傷の治療をする。この間、月日は特定できないが、和気清麻呂公史蹟に立ち寄る。史蹟といっても斉彬公お手植の松があっただけ。しかし犬飼滝と渓谷を見下ろし、右手に桜島、左手に高千穂峰を望めるこの場所は絶景であった。蔭見滝や塩浸温泉はこの世の外かと思われ候ほどめずらしき所なり。谷川の流れにて魚を釣り、短筒で鳥を撃つ。誠におもしろかりし。 |
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3月28日 |
5月12日 |
龍馬夫妻、吉井幸輔の案内で、栄之尾温泉の小松帯刀のお見舞いに行く。 |
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3月29日 |
5月13日 |
龍馬夫婦念願の高千穂登山。途中高千穂峰を矢立でスケッチする。馬の背越えではあぶなくてお龍の手を引く。天の逆鉾に笑い、おびただしいキリシマツツジに感動。霧島神宮を参拝し御神木の樹齢千年近い大杉を見る。華林寺泊。 |
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3月30日 |
5月14日 |
再び硫黄谷温泉泊。吉井幸輔が待っており、同行して4月1日塩浸温泉へ帰り7泊する。 |
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4月8日 |
5月22日 |
日当山温泉に帰り3泊する。 |
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4月11日 |
5月25日 |
浜之市に帰り船待ちで1泊するも、宿は不明。 |
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4月12日 |
5月26日 |
浜之市から乗船。鹿児島へ帰る。小松帯刀原良別邸へ約50日間滞在するも毎日どこで何をしていたかは、不明。 |
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4月14日 |
5月28日 |
開成所に行く。5月1日桜島丸来る。 |
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5月19日 |
6月15日 |
寺内氏より四両三歩の金を借用し、短刀合口をこしらえる。 |
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6月4日 |
7月13日 |
龍馬夫妻は桜島丸にて天保山より出港、帰途につく。 |
龍馬が妻としたのが楢崎龍。青蓮院宮家の待医・楢崎将作の長女です。勤王医として活動していた父は、安政の大獄で投獄され、獄舎で病死しました。父の死後は、姉弟を養うために扇岩と言う旅館に奉公したと言います。龍馬と出会って間もない頃、妹たちが騙されて大阪の遊女に売られる事件があり、お龍はこの時、刃物を片手に一人で女部屋に乗り込んで妹を救出しています。この時のことを龍馬は「死ねる覚悟にて刃物をふところにして喧嘩をいたし・・・」と手紙に詳しく書いており、お龍の行動に感心し、相当な衝撃を受けたものと思われます。気が強く、奔放な女性というのが、お龍を知る人に共通のイメージでした。茶道、華道、香道などの心得がありましたが、家事は苦手で、遊芸は大好き、政治のことにも口を出したがるような女性だったようで、当時の男性には敬遠されるタイプだったと言えますが、龍馬にとってはそこが魅力であり、恋に落ちるには十分な要素です。龍馬とお龍は、夜毎鴨川べりをデートしたと言われていますが、当時としては男女が寄り添って一緒に歩くなどは珍しいことであり、両人共に常識の範囲では考えられない思考の持ち主だったのではないでしょうか。
寺田屋で捕り手に踏み込まれたときには、入浴中だったお龍が真っ先に気づき、素肌に袷一枚の姿で二階に駆け上がり、龍馬に知らせました。大勢の捕り手に対し、龍馬は拳銃で応戦し逃走しましたが、手に深手を負い、動けなくなりました。お龍は伏見の薩摩藩邸に知らせに走り、救護の兵を出して龍馬の命を救いました。この寺田屋事件の際、お龍の機転に感じ入り、妻として迎えたのでしょう。1866年旧暦の3月、寺田屋事件で傷を負った龍馬は、小松帯刀、西郷隆盛、吉井幸輔らの紹介で、薩摩藩を訪れ、鹿児島市の天保山より錦江湾を船で渡り浜之市、日当山温泉、塩浸温泉、犬飼滝、霧島温泉、高千穂登山、霧島神宮参拝と訪ね歩いています。二人が仲むつまじく過ごせたのは、後にも先にもこのときだけです。これがいわゆる「日本最初の新婚旅行」と言われています。
龍馬が12歳のとき、母・幸が亡くなった後、母親代わりとして、育てたのが4つ年上の姉・乙女さん。母親の死後、悲しみのあまり、家にこもりがちだった龍馬を、剣術や泳ぎなどで徹底的に教えた人物です。「坂本家の仁王様」と呼ばれるほどの烈女であり、身長五尺八寸(175センチメートル)、体重は百キロを超えていたといわれ、剣術や馬術、弓術、水練のほか、琴や三味線、浄瑠璃、和歌、詩吟など文芸もこなす文武両道の女性であったといいます。
幼少の頃、泣き虫だった龍馬を徹底して鍛えるべく、嫌がる龍馬を剣術で打ち負かしたり、小栗流日根野道場に入門させたり、無理やり川に投げ落としてまで泳ぎを教えたりと、龍馬の心身を鍛え上げました。その甲斐あって龍馬は、同年代の少年たちよりもかなり大きく成長し、同時期に入門した少年たちのなかでは、体格や剣術の実力では際立った存在だったと言い、龍馬の才能を見い出した人物の1人であるといえるでしょう。龍馬が土佐を離れたあとも姉弟の絆は固く、乙女姉さんには、自慢話から、女性関係までまめに手紙を送っています。乙女姉さんあてに、全部で138通の手紙を送ったと言われています。
龍馬は、おおらかでありながら、大変筆まめでユーモアに富んだ人柄であることが、姉の乙女などに出した手紙からわかります。特に姉の乙女には138通の手紙を送ったといわれていますが、下の手紙は、寺田屋事件で傷を負った龍馬が、その治療を兼ねて妻のお龍と鹿児島県の霧島山へ登り、温泉で保養したことを書いたものです。登山道を絵入りで示し、見たこと感じたことをそのまま書き表しています。龍馬が残した手紙の中でイラスト入りのものは4通だけで、大変貴重なものです。今日では、新婚旅行は当たり前ですが、当時はその習慣はなく、龍馬のこの旅行が日本の新婚旅行第1号ではないかと言われています。これはその一部です。手紙を現代文に短くまとめるとおよそ次のようになります。
補足エピソード
龍馬は栄之尾温泉で湯治をしていた小松帯刀の見舞いに行き、翌日に念願の高千穂登山を行っています。途中高千穂峰をスケッチし、馬の背越えでは危なくてお龍の手を引き、天の逆鉾に笑い、おびただしい霧島ツツジに感動した様子が、姉乙女さんに宛てた手紙で知ることができます。この時龍馬は小松帯刀からもらったカステラを弁当代わりに持って行きました。
【お知らせ】
塩浸地区集落から塩浸温泉龍馬公園へ続く道(龍の背坂)は、令和6年5月27~28日にかけての大雨により路肩が一部崩落し通行に危険があるため通行止めとしています。ご迷惑をおかけしますが、ご理解とご協力をお願いいたします。
1866年(慶応2年)旧暦の3月、坂本龍馬、お龍夫妻が新婚旅行の際、18日間滞在した場所が塩浸温泉です。現在、塩浸温泉龍馬公園として整備され、宿泊はできませんが、温泉施設や、坂本龍馬とお龍の新婚旅行の地など、当時を回想する展示物や龍馬と霧島・薩摩がわかる資料館、二人の新婚湯治碑、公園内の足湯などがあります。
霧島市は、1866年土佐の坂本龍馬と妻お龍が日本で最初の新婚旅行で訪れ、昭和9年3月には、日本で最初の国立公園として指定された地であります。日本の将来を思い描きながら二人が歩いた道を現代の龍馬とお龍となって歩き、霧島の自然や歴史を楽しむウォーキング大会です。
期日:毎年3月中旬頃の2日間開催
場所:霧島温泉コース、犬飼・中津川コース、花はきりしま菜の花コース、隼人・天降川コースの4コース
公益社団法人霧島市観光協会:電話0995-78-2115
公益社団法人霧島市観光協会http://kirishimakankou.com/(外部サイトへリンク)
公益社団法人鹿児島県観光連盟https://www.kagoshima-kankou.com/(外部サイトへリンク)
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